能勢電1000系
阪急最初の高性能車として試作の1000形4両が昭和29年に建造されました。
これを元に量産車として登場したのが神戸線1010系・宝塚線1100系、それに京都線1300系です。
これらの一群は近年鉄コレでも販売された車輌で、それなりに人気がある一方、古めかしさが拭えないデザインでもあります。
とはいうものの昭和30年代の車輌ということもあり、一部の車両は昭和50年代前半に冷房改造を受けました。
ただみための古さが祟ってか、冷房なし車は昭和61年、冷房車も昭和63年(車籍は翌年春まで)に全廃となるなど、阪急にしては短命な車両でした。
この1010系・1100系は当初は2枚扉でしたが途中から3枚扉にて建造され、のちに2枚扉車も3枚扉に改造されました。
さらに3枚扉・冷改車の後期車のうち1010系・1100系各4両が能勢電に譲渡されました。
能勢電に譲渡まではありがちな話ですが、時既に2100系が冷房改造の上能勢電に譲渡されていましたから、「何をいまさら」と思ったのと同時に、冷改車とはいえ「まさか」の改造をされていたのです。

そう、まさかの「尾灯・標識灯を腰板に移設」していたのです。
この話を最初聞いたときは「何をしょうもない冗談を!」と思っていたのですが、後日RP誌に掲載されたのを見てぶっ飛んだことを強く印象に残っています。
ここまで改造しなくても、例えば幕を車掌台側窓に取り付け、尾灯はそのまま存置したほうが良かったのでは、と思います。
変に改造したのでかえって姥桜のようになり、元々の車両を古く感じさせるようになったような気がします。
そうは言っても車内は1010系・1100系そのもので木目印刷も残っている(冷房改造時に窓枠・鎧戸はアルミ無塗装化されていましたが)こともあって何度か乗りに行きました。




ただ610系が引退して全車冷房車になってからは予備車的な存在になっていてあまり日中見なくなっていたところに、晩年は6連1本に集約されてラッシュ時専用車となっていたために走っている機会を目にすることはほとんどなく、ましてやスマホもデジカメも無い時代、気軽に写メを撮るということもなかったため 結局写真に残したのはこのさよなら運転時のみでした。
この1000系、能勢電に譲渡された時は能勢電は600Vだったために2Ⅿから1Ⅿ方式に改造され、そのために先頭車を中間車化改造もされました。この中間車化改造は見た目は中間車で建造されたものとほぼ同じように丁寧に改造されましたが、窓周りの出っ張りが妻面まで回っていなかったので判別することが出来ました。


ここまで手の込んだ改造をしながらも薄命で、阪急で30年、能勢電でも13年ほどの活躍に留まりました。

これを元に量産車として登場したのが神戸線1010系・宝塚線1100系、それに京都線1300系です。
これらの一群は近年鉄コレでも販売された車輌で、それなりに人気がある一方、古めかしさが拭えないデザインでもあります。
とはいうものの昭和30年代の車輌ということもあり、一部の車両は昭和50年代前半に冷房改造を受けました。
ただみための古さが祟ってか、冷房なし車は昭和61年、冷房車も昭和63年(車籍は翌年春まで)に全廃となるなど、阪急にしては短命な車両でした。
この1010系・1100系は当初は2枚扉でしたが途中から3枚扉にて建造され、のちに2枚扉車も3枚扉に改造されました。
さらに3枚扉・冷改車の後期車のうち1010系・1100系各4両が能勢電に譲渡されました。
能勢電に譲渡まではありがちな話ですが、時既に2100系が冷房改造の上能勢電に譲渡されていましたから、「何をいまさら」と思ったのと同時に、冷改車とはいえ「まさか」の改造をされていたのです。

そう、まさかの「尾灯・標識灯を腰板に移設」していたのです。
この話を最初聞いたときは「何をしょうもない冗談を!」と思っていたのですが、後日RP誌に掲載されたのを見てぶっ飛んだことを強く印象に残っています。
ここまで改造しなくても、例えば幕を車掌台側窓に取り付け、尾灯はそのまま存置したほうが良かったのでは、と思います。
変に改造したのでかえって姥桜のようになり、元々の車両を古く感じさせるようになったような気がします。
そうは言っても車内は1010系・1100系そのもので木目印刷も残っている(冷房改造時に窓枠・鎧戸はアルミ無塗装化されていましたが)こともあって何度か乗りに行きました。




ただ610系が引退して全車冷房車になってからは予備車的な存在になっていてあまり日中見なくなっていたところに、晩年は6連1本に集約されてラッシュ時専用車となっていたために走っている機会を目にすることはほとんどなく、ましてやスマホもデジカメも無い時代、気軽に写メを撮るということもなかったため 結局写真に残したのはこのさよなら運転時のみでした。
この1000系、能勢電に譲渡された時は能勢電は600Vだったために2Ⅿから1Ⅿ方式に改造され、そのために先頭車を中間車化改造もされました。この中間車化改造は見た目は中間車で建造されたものとほぼ同じように丁寧に改造されましたが、窓周りの出っ張りが妻面まで回っていなかったので判別することが出来ました。


ここまで手の込んだ改造をしながらも薄命で、阪急で30年、能勢電でも13年ほどの活躍に留まりました。

チャレンジ20,000km
国鉄時代末期、乗客増を狙ってチャレンジ20,000kmというキャンペーンが実施されました。
1980年3月から1990年3月までの丸々10年間のロングランキャンペーンで、要するに国鉄全線乗りつぶしがゴールというものでした。
1978年にベストセラーとなった宮脇俊三氏の『時刻表20,000km』によるブームも後押ししたようです。
乗り鉄だった私も1985年3月から最後までの5年間に参加しました。

このキャンペーン、国鉄全線の始発駅と終着駅の駅名板と本人を一緒に写した写真を事務局に送ることでその線を踏破したとみなすものでした。
そして30線区・50線区・100線区などの区切りごとに協賛会社による記念品がもらえました。
完乗を果たすと確かC57やまぐち号の模型がもらえたはずです。
今も40線区賞、80線区賞、そしてバスタオル(50線区賞?)が残っていました。


ただこの線区賞、まとめて申請すると上の線区賞しかもらえなかった記憶があります。
なのでもらっていない線区賞が結構あります。
最終的には192線区を踏破し、キャンペーン終了後も乗り続けた結果 未踏破は三陸地区・三江線・美祢線・山陰本線の仙崎~下関間と可部線、などごく僅かになり、三島会社と東海は整備新幹線以外は完乗しました。
20世紀末にはJR東日本や西日本が似たようなキャンペーン(ただし線区は運航実態に合わせ、支線は対象外だったりしました)を実施しましたが、もう一つ盛り上がりませんでした。やはり全国ネットか自社完結か、支線を含めるか否か、といった難易度とマニア心をくすぐるか、の違い、そして長距離列車や地方ローカル線が減少して乗る楽しみが減っていたことが影響されていると思います。
単に列車を乗り継ぐだけで楽しめた時代。
新幹線が全国網となり短時間で快適に移動できるようになった反面、乗る楽しみ、景色を見る楽しみは失った気がします。
かくいう自分も1996年頃を境に乗り潰すことは無くなってしまいました。
昭和は遠くになりにけり・・・。
1980年3月から1990年3月までの丸々10年間のロングランキャンペーンで、要するに国鉄全線乗りつぶしがゴールというものでした。
1978年にベストセラーとなった宮脇俊三氏の『時刻表20,000km』によるブームも後押ししたようです。
乗り鉄だった私も1985年3月から最後までの5年間に参加しました。

このキャンペーン、国鉄全線の始発駅と終着駅の駅名板と本人を一緒に写した写真を事務局に送ることでその線を踏破したとみなすものでした。
そして30線区・50線区・100線区などの区切りごとに協賛会社による記念品がもらえました。
完乗を果たすと確かC57やまぐち号の模型がもらえたはずです。
今も40線区賞、80線区賞、そしてバスタオル(50線区賞?)が残っていました。


ただこの線区賞、まとめて申請すると上の線区賞しかもらえなかった記憶があります。
なのでもらっていない線区賞が結構あります。
最終的には192線区を踏破し、キャンペーン終了後も乗り続けた結果 未踏破は三陸地区・三江線・美祢線・山陰本線の仙崎~下関間と可部線、などごく僅かになり、三島会社と東海は整備新幹線以外は完乗しました。
20世紀末にはJR東日本や西日本が似たようなキャンペーン(ただし線区は運航実態に合わせ、支線は対象外だったりしました)を実施しましたが、もう一つ盛り上がりませんでした。やはり全国ネットか自社完結か、支線を含めるか否か、といった難易度とマニア心をくすぐるか、の違い、そして長距離列車や地方ローカル線が減少して乗る楽しみが減っていたことが影響されていると思います。
単に列車を乗り継ぐだけで楽しめた時代。
新幹線が全国網となり短時間で快適に移動できるようになった反面、乗る楽しみ、景色を見る楽しみは失った気がします。
かくいう自分も1996年頃を境に乗り潰すことは無くなってしまいました。
昭和は遠くになりにけり・・・。
和田岬線のオハ64
神戸にはもうひとつマルーン色の車両が走っていました。
正確にいうとぶどう2号ですが、最後まで残った定期の旧型客車が和田岬線で走っていました。
それがオハ64・オハフ64です。
この列車、一駅間であることと通勤輸送のみのため、極端に椅子の少ない車輌で有名でした。しかも5~6連でしたからサハ204や阪急8200系もびっくりです。
(サハ204や阪急8200系は完全に座席を収納できますが、編成中1~2両で一応朝ラッシュ以外は椅子が出てきますので)

しかも機回しの手間を考えてDD13のプッシュプル(国鉄末期からはDE10のプッシュプル)でした。

ただ、なぜか夕方1本目はDE10が1両で和田岬で機回しを行っていました。この列車はラッシュより少し早くて空いていたからかもしれません。

さすがに短時間とはいえ座席が無いことにクレームが出たのか、それとも民営化によるサービス向上を体現したのか、晩年はボックスシートのオハ46かスハフ42が最後尾に連結されるようになりました。


週休二日制が完全に浸透していなかった当時、土曜日夕方は空いていながらも列車本数は平日より1往復少ない程度だったためにこのボックスシート目当てに通ったものです。
車齢とプッシュプルの非効率性、いくら低速とはいえ手動ドアの危険性により、1990年9月末で旧型客車は引退しキハ35 300番台
に置き換えられました。旧型客車が消えてからは一度も訪れていませんが、噂によると今や電化されなんと103系が走っているというから驚きです。

昭和は遠くになりにけり・・・

(1990年7月撮影)
正確にいうとぶどう2号ですが、最後まで残った定期の旧型客車が和田岬線で走っていました。
それがオハ64・オハフ64です。
この列車、一駅間であることと通勤輸送のみのため、極端に椅子の少ない車輌で有名でした。しかも5~6連でしたからサハ204や阪急8200系もびっくりです。
(サハ204や阪急8200系は完全に座席を収納できますが、編成中1~2両で一応朝ラッシュ以外は椅子が出てきますので)

しかも機回しの手間を考えてDD13のプッシュプル(国鉄末期からはDE10のプッシュプル)でした。

ただ、なぜか夕方1本目はDE10が1両で和田岬で機回しを行っていました。この列車はラッシュより少し早くて空いていたからかもしれません。

さすがに短時間とはいえ座席が無いことにクレームが出たのか、それとも民営化によるサービス向上を体現したのか、晩年はボックスシートのオハ46かスハフ42が最後尾に連結されるようになりました。


週休二日制が完全に浸透していなかった当時、土曜日夕方は空いていながらも列車本数は平日より1往復少ない程度だったためにこのボックスシート目当てに通ったものです。
車齢とプッシュプルの非効率性、いくら低速とはいえ手動ドアの危険性により、1990年9月末で旧型客車は引退しキハ35 300番台
に置き換えられました。旧型客車が消えてからは一度も訪れていませんが、噂によると今や電化されなんと103系が走っているというから驚きです。

昭和は遠くになりにけり・・・

(1990年7月撮影)
キハ30
久々の国鉄ネタで。
昨年暮れですが、出張で岡山に行くことがありました。今頃その頃の話をするな、という気もしますがもっと昔の阪急ブレーブスネタとかも転がっているブログですからその中では超最近のナウいホットな話題とも言えます。
で、その時は岡山でに宿泊したかったものの、丁度学会などというものが開催されていて岡山で空いているホテルが全くなく、倉敷で泊まりました。
で、その時に夜、駅に降り立った時に「そういえば水島臨海には国鉄型の気動車が残っていたよな」と気づきました。
しっかり書いていましたよ、朝に国鉄型が限定運用されるスジが。
というわけで翌朝。もっとも日の出が遅い時期にですよ、始発の朝6時20分発で三菱自工前に国鉄型を出迎えに!

で、着いたのが終点三菱自工前。工場はいっぱいありますが、コンビニすらない駅です。

待つこと20分…。
キタッ!

元JR東日本車だけあって改装はされていますが、やはり車内はキハ30。
昔は外吊り扉からの隙間風がひどい、ロングシート、などボロくてこれが来ると落胆したものですが、勝手なものです。今はわざわざ早起きしてまで乗りに行くぐらいですから。



外吊り扉なのに戸袋に相当する部分の窓が開くという謎の設計ゆえのこの表記・・・。

とか好き勝手言いつつも30分ほどの国鉄型の旅を堪能してきました。
市街地を走るだけあって朝の混雑は結構なもので、大型の国鉄型ロングシート車2両でないとさばけないようで、嬉しい悲鳴です。
もうこれがキハ30の現役に乗る最後なんだろうな、と思い 折り返しの列車を見送りました。

ちなみに水島に行った元久留里線のキハ30は キハ30 100 ですが、同僚のキハ30 98は久留里線時代に撮っていました。
2005年2月。キハ38などに合わせたパンダ目の塗装が却って古めかしさを強めています。

昨年暮れですが、出張で岡山に行くことがありました。今頃その頃の話をするな、という気もしますがもっと昔の阪急ブレーブスネタとかも転がっているブログですからその中では超最近のナウいホットな話題とも言えます。
で、その時は岡山でに宿泊したかったものの、丁度学会などというものが開催されていて岡山で空いているホテルが全くなく、倉敷で泊まりました。
で、その時に夜、駅に降り立った時に「そういえば水島臨海には国鉄型の気動車が残っていたよな」と気づきました。
しっかり書いていましたよ、朝に国鉄型が限定運用されるスジが。
というわけで翌朝。もっとも日の出が遅い時期にですよ、始発の朝6時20分発で三菱自工前に国鉄型を出迎えに!

で、着いたのが終点三菱自工前。工場はいっぱいありますが、コンビニすらない駅です。

待つこと20分…。
キタッ!

元JR東日本車だけあって改装はされていますが、やはり車内はキハ30。
昔は外吊り扉からの隙間風がひどい、ロングシート、などボロくてこれが来ると落胆したものですが、勝手なものです。今はわざわざ早起きしてまで乗りに行くぐらいですから。



外吊り扉なのに戸袋に相当する部分の窓が開くという謎の設計ゆえのこの表記・・・。

とか好き勝手言いつつも30分ほどの国鉄型の旅を堪能してきました。
市街地を走るだけあって朝の混雑は結構なもので、大型の国鉄型ロングシート車2両でないとさばけないようで、嬉しい悲鳴です。
もうこれがキハ30の現役に乗る最後なんだろうな、と思い 折り返しの列車を見送りました。

ちなみに水島に行った元久留里線のキハ30は キハ30 100 ですが、同僚のキハ30 98は久留里線時代に撮っていました。
2005年2月。キハ38などに合わせたパンダ目の塗装が却って古めかしさを強めています。
